昭和49年03月17日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神と言えば、天地を一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ。」

 神様が、平等に下さってあるおかげを頂く為には、どうでも御神徳を受けなければならないと、お徳を受けなければならない。そのお徳そのものが、私は受け物だと思うのです。神様のご信用を御神徳と言われております。神様のご信用を受けなければ、そういう神様のご信用という受け物を待たなければ、神様が平等に下さってあるおかげは頂けないと思う。もうこんなに道理に合うた、御理解はないと思うですね。
 神様が平等におかげを下さってあるけれども、受け物が悪ければどうしようもない。是はもう仕方がないて神様も。ね。こちらが小さな受け物を持って行って、「どうぞ、大きなおかげを下さい」と言うても、是は貰えません。ね。こちらが例えば、網の様な物を持って行って、ね。水か油の様な物を下さいと言うても、それはもう一つも貰えない。所謂漏ってしまう。ね。
 そこで私共がいうなら、水も漏らさぬ様な信心、ね。又は受け物を本気で頂こうと言うおかげを頂かなければならぬ。ね。水も漏らさぬ様な信心というのが、私は行き届いた信心だと思うです。ね。受け物を用意すると言う事は、所謂、愈々心を大事にすると言う事だと思うです。所謂、和賀心を愈々目指すと言う事だと思うです。人間の力には、言わば一つの限度と言う物が勿論あります。ね。どんなに例えばほんなら、力持ちだと言うても、千斤も二千斤もと言う物は持たれません。ね。
 まあ普通一人で百斤か、せいぜいまあ二百斤でしょう。此処ん所を私は一つの人間の所謂、限度だとこう思うですね、力の。けれどもそのそう言う力を受けられる、言うなら物を持っておりながら、力を付けようとする働きをしなかったら力は着きません。私共の様にまだ米一俵と言う物を持った事がない。ね。そのまあ持ちも切らない、持った事も無い者がどうぞ米一俵下さいと言うても、「はい、どうぞ」ち言うてから下さっても、それこそ抱える事も出来ない。持って行けないでしょう。ね。
 けれども普通のま男性であるならば、ね。それを持つ力位は誰でも大体はそう言う力位は皆んな持てれる力が受けれれるものを、皆んな頂いておるけれども、ね。力の着く言うなら力仕事でもしとらん者は中々力が十分に発揮出来ない様なんです。私はもう人間として十分発揮の出来れる力の発揮の出来れる、その所のまでは一つ本気で頂こうと思います。例えて申しますと御徳を受けられた先生方が沢山おられますが、ね。
 その方達が神様からおかげを受けておられるという、其処迄はだから受けられるはずだとこう思うんです。まあ教祖の神様のような方は、是は千年万年経っても又と出られる方じゃないですから、真似は出来んに致しましても、ね。例えば此の辺で言うならば、久留米の初代とか、ね。または甘木の初代辺りの様な、あのお徳を受けられて、あれだけのヒレイを立てられた。沢山の人が助かる言うなら力を受けられた。だからまあいうなら、そう言う一つの手本がありますから、ね。
 そこまでは私共も一生懸命力を受けて行こうと精進すれば出来る。そこに一つの目当てと言う物が、ね。いわゆる是で済んだとは思わんという信心は、ね。おかげもやっぱり、是で済んだのでは在りません。是で済んだと思わんという信心を、させて貰や矢張りは、あぁこういうおかげも頂けれると言う事が、解るおかげになって来るです。ね。受けものが悪ければおかげが漏る。ね。受け物それは私は心だとこう思う。ね。いよいよ和賀心を目指さなければならん。
 おかげの受け物は、私は力だと思う。言わば力を頂かなければならん。ね。そのおかげの受け物が、悪ければおかげが漏る。ね。そういう精進をさせて頂く。そこから段々お徳を受けて来る。お徳その物がおかげの言わば受けものである。そのお徳は十分に神の徳を十分に受けようと思えば、ままよと言う心を出さない出さねばおかげは受けられんとある。それでまあここでなさる信心の稽古をなさる方はね。私が頂いておるところまでは、誰でも頂けれるんだと。まあ皆さんの目当てです。
 そりゃ親先生のごと頂かんで良かってんなんてんちいう事は無いです。勿論そりゃ私ぐらいのことじゃないもっともっと、なら私の信心を一つのまあ踏み台ともしてね。もっと素晴らしいお徳を受けられる。けれども先ずはそこの目当てと言う物を其処に置かなければならぬ。そんなら親先生はどういう信心をして来たかと言う事を、まあ皆さんが見たり聞いたりして下さってそれを私は行の上に頂き現して行かないけんと。
 私は今日初めて御祈念中に、こう言うまあ御祈念をさせて貰う、御祈念の言葉の中にこう言う事を申し上げたんです。そしたらカチンと神様の機感に叶ったんでしょう。おいさみを頂いた。というのは士農工商的おかげが、いよいよ密におかげが蒙れます様にという御祈念である。御祈念の言葉士農工商的おかげ。ね。それは色々に頂かれます。お金は大変お繰り合わせ頂いとるけれども健康でない。健康は頂いておるけれどもお金が無い。と言うのは、私はおかげがちぐはぐになってるんだと言う事、ね。
 おかげがチンバ踏んどると言う事です。ね。そしたら今日のこの所を頂いたから、はあー、今日はその、平等というところにです。神様は平等におかげを下さっておる。一様に。あれが多すぎるという事も無からなければ、これが少なくて困るという事もあるはずはない。そういう、一様なおかげを下さるけれども、ね。こちらがいうならおかげがチンバ踏んどるようなおかげであってはならない。ね。所謂全てのおかげが、士農工商的なおかげになって来なければいけません。ね。
 差別が無い。昔は所謂、士農工商で侍が一番いいのであり、それから農、工、商と、商人が一番下に置かれておる。是は区別ですけれども、ね。言葉の順序はそうでありましても平等という、士農工商、全てが平等である。ね。人間みな神の氏子としての、氏子としての資格をお互い頂いているのでありますから、神様も色が黒いから白いから、黄ないからと言うて、分け隔てをなさるはずは無い一様に下さる。ね。そこら辺も大変難しい事だと思うんですけれども。
 そんなら南方におる人、北の方へおる人、又あのハワイ辺りの様に、何時もがその春の様な都合の良い、あの気候の良い所に住んでいる人もあります。それだけでも平等じゃないじゃないかと、まあ言や、言えん事もないけれども、私は此処で言う平等というのは、そう言う意味じゃないと思う。ね。問題は人間の何処におっても、幸せを感ずると言う事だと思う。ね。何処の人間にでもです、ね。その人の心掛け次第では、もう私は世界一の幸せ者だと、例えば言えたり、思えたりする心だと思うです。ね。
 まあ私はそう言う風に思うのですけれどもです。今日私は私の御祈念の中に、ね。士農工商的おかげを、愈々密に頂いて行く事を願わせて頂いたら、神様がそういう願いを聞き届けたい。神様が喜んで下さる様な願いであったと自分で思います。ね。そこでなら、私が子供息子四人の子供が、所謂士農工商のおかげを頂いておる。例えば高校だけ、高校の上においてもです。ね。
 ほんならその例えば子供達を、四人おるから、一人は普通高校にやろう、一人は農業学校にやろう、一人はどうでも商業学校にやろうと、工業学校にやろうと言うた事でも、思うた事でもなかったけれども、それこそ天然地念である。ね。天然というのは、ね。自然、神様の働きその物である。地念というのは所謂、地に念ずる。言うなら泥の様な信心。何を頂いても、黙って受けますという心なんだ。しかも受けますだけではなくて、それを自分の心の糧ともする。
 心の肥料ともする、心を研く材料ともすると言う受け方なのである。ね。だから私がそういう信心を、例えばしておるから、そういう風に現れて来たのである。ね。みんなが卒業してしもうて、改めてその事を神様から頂いた時にです。まだ栄四郎は在学中でしたかね。まあようやく今年卒業したばっかりですからね。普通人間心でいうならばです。まあ頭でん良かならば、普通の高校に入れて、まあ今の合楽のあれから言や一人ひとり、頭が良かなら大学にでもやりたい、やってもまあ良い訳です。
 やれれる訳なんです。ね。けれどもそう言う事は問題ではない。神様が下さるものを兎に角只頂こうと言う信心だった。ね。其処で私は平等のおかげを平等に頂き漏らさんですむ、それは私共には、力の限界と言う物がありますけれども、ね。ありますけれどもその限界内でならです内でですね。十分に神様が下さろうとする物を言わば見事に受け止めさせて頂いた。それは私の天然地念の信心からだと言う事になるのです。
 ああこげなきつい事言や、こんな悲しい事は又と言う悲しい事であろうが、きつい事であろうがそれこそ血の涙がにじむ様な思いをする様な事であっても、言わば天然だ。ね、自然に此の様にして起きて来た事なのだから、それを黙って受けるという言うなら、ね。地にひれ伏して、しかも泥のような信心をさせて頂いたと言う事なんだ。ね。そういうおかげが、私は所謂平等なおかげの一つの見本の様な物ではなかろうかと思うです。合楽で頂いておる、私共を中心として頂いておるおかげというのは。
 そう言う風にその、言うならばチンバ踏んでない、ね。それはまだ小さい。まあだ上には上が沢山ありますけれども、ね。それは私共の、言わば信心の言うなら、希望でありまあだ受けられるぞと、もっと素晴らしいおかげが受けられるぞと言うのであって、ね。現時点でなら、合楽が受けておる、おかげと言う物をです、思うて見る時に成程、士農工商的な、おかげを受けておるなと、言う事を思います。皆さんも矢張りそういう、神様が下さろうとする、おかげを頂く事の為にはです。
 どうでも言うならば、ままよという心に、ならなければと言う事を、今日は天然地念の信心と、天然と言う事は自然、然と言う字ですよ。ね。地念と言うのは地に念ずると言う念ですよ。私の天然地念の信心が、神様が下さろうとするおかげを、言うなら頂き漏らさずに、頂いたと言う感じが致します。ね。そういう信心を私はままよという心、ままよという心を出さなければおかげは受けられんと仰っしゃる。ね。ままよという心だと思う。神様が下さるものならば、それこそ夏もお小袖である。ね。
 夏に着物などは要りませんというのじゃない。ね。神様が下さろうというのならば、それを所謂合掌して受けて行こうという受け方からです。ね、神様が下さろうとする所の、平等に下さろうとしておるおかげを、まあ小さい言わば、見本の様な物ですけれどもです。ね。平等に受け止めさして頂いておるのが、現在の合楽のおかげではないかと思うのです。だから、皆さんも、どうでも頂いて貰わなければならんのです。ね。それは例えばそうですよ、なら私共の子供達の言うなら試験の事でもです、ね。
 出来るなら、矢張り県立の何処どこ学校に行きたいと言う希望を持っておる。希望を持ってならんという事じゃない。けれどもほんなら、蓋を開けてみた所が、ほんなら出来なかった。だから、私立の学校へ行った、ね。それが天然でしょうが。いやもうこげな学校にはもう困るとか、行けないじゃない。それを有難く受けて行く、ね。願いとか、希望を持ってならないと言う事ではないのです。けれども頂いたら、頂いたその時点を大事にして行くと言う事です。どうぞ皆さんね。
 士農工商的おかげ。しかもそれがです密なるものになって行かなければならない。密なるものと言う事は、ね。言うなら水も漏らさぬおかげになって行かなければならない。為には愈々言うなら、行き届いた信心をさせて貰わねばならん。ね。本当此処の行き届いた信心と言う事はね。本当にあの、金光教的だと思うのですけれども、例えば試験に、お願いしとったけれども通らなかった、通らなかったその時点で、いち早く、神様すみませんと、おかげを頂きました。
 出来ませんでしたけれども、おかげで信心が出来ましたと言うて、もう出来た出来なかったと言うその時点で、お礼に出て来る人がありますね。もうそれこそ神様が天然に下さった、その下さったものを、そのまま合掌して受けておる姿です。ね。お願いにはわてて出て来る。けれどもお礼にはあわてて出て来る氏子が少ないとおっしゃるがです。そういう言うなら不行き届きの、ね。
 行き届かない信心からは、今日私が申します様な天然地念。士農工商的な私は平等と言うかね、ね。足ろうたおかげは受けられないと思う。所謂其処ん所を実意丁寧神信心と云う訳ですけれども、ね。むしろそう言う時を愈々大事にすると言う様な生き方こそが、御徳を受けて行く生き方だと思うのです。ね。行き届いた信心させて貰うて、ね。神様が行き届いたおかげを下さってあるのであるから、ね。それを受け漏らさんで済む様なおかげを頂きたい。
   どうぞ。